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個人主義で自分のことばかりだと、全体を考えなくなる。

個人主義で自分のことばかりだと、全体を考えなくなる。 その全体を考えた平安に支えられてこその個人主義の猶予である感謝と恩を忘れている。 個人の自由が尊ばれている世界は、その世界をも内包する全体の平安も大事に守らんとされている。 そうでない世界では個人主義が偏り、それを縛り付けるため平安ではなく力に訴える。




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母性愛の分け隔てや不平を悲しまず、愛を受け、愛に満たされるには、自身が愛となり、母性となり、愛を与える存在になること。

母性愛の分け隔てや不平を悲しまず、愛を受け、愛に満たされるには、自身が愛となり、母性となり、愛を与える存在になること。 誰に愛を与えるかと想って愛が出されるのではなく、ただ出され、それが必要なところへ流れてゆくに任せること。 しかしそれは、出そうとしてもその力からは出ない。 すでに預かっている神を忘れず、想い、それを預かる身として礼節と丁寧さと忍耐を生きること。


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自分の我欲に気づいていれば、亡者にはならない。

自分の我欲に気づいていれば、亡者にはならない。 亡者だからこそ盲目で、身勝手にふるまい、他者を悪として、自身がしているそれらの悪には気づけない。 それにより難関にぶつかっても逃げ続ける限り、永遠に亡者のまま。 相手の何を見て、何のためを想い、良かれと成すのか。 我欲はどこまで行っても、自分の我欲の都合にしかならない。 そこから脱するために艱難辛苦を乗り越える。 逃げても、生きる限り。


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あの時に戻りたいと言っても、当時も何かしら不安や悲しみはあったもの。

あの時に戻りたいと言っても、当時も何かしら不安や悲しみはあったもの。 忘れているだけ。 今もあのときの幸せを、心の平安としてここに感じて、今の不安や悲しみはそれと同時の、人生との接点として受け止める。 ただ、今ではなく未来に、無用に不安や悲しみを憂うと、今の平安を失う。 せっかく今はまだここにあることへの感謝を失う。 かけがえのない今に感謝すること。


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善か悪かは、自分が相手かではない。

善か悪かは、自分が相手かではない。 自他共に、善悪両方を抱く。 自身の悪を滅して善を真ん中に置く。 相手と仲間になるために、相手の悪を取り入れてはならない。 逆もまた同じこと。 まず良心を生きることが第一歩であり常の歩みである。 自我を手放さなくては実現できない。 なぜなら自我は、善に慢心し、悪を正当化する。 善を滅して悪を真ん中に置く、真逆になる。


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知は体験を凌駕する。

知は体験を凌駕する。 体験の積み重ねは個人の域を出ない。 体験の情報は単なる記録でしかない。 だがそれら積み重ねの末に発見された真理や真実、これが知である。 よって知は、無用な体験を避けさせる。 知が体験を凌駕すると知る者は、まず行動的である。 そして行動の結果としての体験の積み重ねや情報という、個々の範疇を超えて、全体に行き渡る真理や真実を垣間見て、知るのだ。


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派手な柄の昆虫は、柄に我知らぬと、静かにたたずむ。

派手な柄の昆虫は、柄に我知らぬと、静かにたたずむ。 しかし触れれば飛び上がり、即座に噛みつきもする。 まるで眠れるロボットか爆弾が、スイッチひとつ押すこおによってその全力を大爆発させるように。 人は自我の主張のために派手な柄をまとう。 または昆虫のように無知のまま、まとわされている。 それとも知を得て脱ぐも着るも自在で、どちらに関わらず行動も自在なら、無知もなく自我もなく、人の知として残るは愛であり思いやりとなる。


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今の住処が大切なように、先祖もまた別などこかの住処を大切にした。

今の住処が大切なように、先祖もまた別などこかの住処を大切にした。 住処の本質を大切にするために、今の住処を大切にする。 所有ではなく、大切で必要な役割として。 いずれ手放すからと、無下にしてはならない。 有り難い機会。 それは自分や子供の命も同じことが言える。



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勇気は心の痛みを伴う、自我を手放し、周囲の心と繋がりながらも、周囲が好まない逆へと走らなくてはならないことだから。

勇気は心の痛みを伴う、自我を手放し、周囲の心と繋がりながらも、周囲が好まない逆へと走らなくてはならないことだから。 無謀は周囲が憧れる自我の夢に酔い、心の繋がりもなく、欲望のみであり、心の痛みを伴わない。