砂漠の水売りは、偶発的であり、才覚では無いし、優秀さでもないし、継続もできない。
水を持つものが意図的に砂漠まで水売りに行くこと自体が困難であり、偶発的な条件下でなければ、まず成立しない。
それは自分の才覚ではなく、そこにある周囲の力の助けがもたらした、偶発的な賜物。
偶もまた必然。
それによって周囲に恩返しすることで、成り立つこと。
自分の才覚とは、水売りに加えて他の要素も兼ね揃えているもの。
今はその役割の場に立っているにすぎないということ。
そこで才覚を発揮するには、求められることに努めること。
それは水売り以外のことをふんだんに学び、成長し、実践すること。
それが才覚や優秀さを発揮させる。
才覚あれば、社会のためなら水売りではなく水源を見つけて水引をする。
そのとき水売りは取って代わられる。
抵抗すれば他者の足を引っ張ることになってゆく。
偶発的な優位性が、周囲にとっての優位性よりも、悪影響に傾いてゆく。
社会はそれを見ている。
性根が明るみになれば、偶発的なことによる仮初めの評価は軽く消し飛ぶ。
伸び代のなさ、許容量の小ささの低さを判定され、代わりがいくらでもいることが明るみになる。