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個々の考え方と言うが、じつは人は考えてはいない。

個々の考え方と言うが、じつは人は考えてはいない。 本当の自分がそこにはない。 深く考えること、考察することが、含まれていない。 考えている者と考えていない者が出会えば、そこに個々の考え方というものはあるのか、またそこを左右するものは何なのか。 ゆるぎない真実の法則や大切なことを見失い、個々の自我が迷い、個々の自我の欲求として、四方八方に散り散りになっている。 しかし、それを満たそうとした者が振りまいた考え方に突き動かされ、または突き動かす側として働かされており、そこにじつは個別の考えなどはない。 全体として失った真実の法則になりかわり、全体として突き動かす流行り廃りに考えなく左右され流されるにすぎない。 もし本当に個別に考えているのなら、それは真実の法則や大切なことを見つけることに、たどりつく。 そしてそのために深く考え、考察するこおは、個々の考え方というものではなくなる。 本当の自分とはなにか。 個性と癖の違いとはなにか。 考えるとはなにか、そのために必要な知識や情報はなにか、を正しく取り入れようと努めるようになる。 深めていくことになる。 そうでなければ、浅くなり、何かに突き動かされる。 悩むだけとなり進むことはできず、そこから逃げるための行動に突き動かされる。 そうして考えることを放棄するほど、人は個々の考え方であると言い訳を主張する。 しかしそこに本当の自分はない。 いたわり大事にすることがない。 そしてそこを利用するものに、突き動かされているにすぎない。 大別された間違った行動にしかならず、多分にもれず突き動かされていることに他ならない。 個々の考え方ではないが、自我はそう言い訳をする。 それは本当の自分ではないが、自我はそう主張する。 では、そのような人々のなかで、人々を守り幸せにする責任ある立場にある者が、どのようにしてその人々を良い方向へ変えて行くのか。 真実の法則を思い出し、大切なことを見つけ、自我の欲に突き動かされず、またそれを人に仕掛けることもないというような行動を不言実行とし、言葉は一番最後についてくる。 ひたすらに、本当の自分とは何かを、深く考えて行く者。 それを見出し、本当の自分という、自他に通じるところに触れている者。 そのような生き方が、他者を感化する。 その度量を測れる学問は無い。 しかしそれを求めた様々な考え方の軌跡を残す学問ならある。 それが深く考えた、考察した成果。 個々の考え方ではない。 考える力をどのように使ったか、考えるとは何かを、思い出させるもの。 正しく考えるとは何か、それを実現させる生き方とは何か、そのために必要なものを、どのようにして得たのか、その背景を残すもの。 本当の自分というものを、自他のために、知るもの。 共有される意識と、法則を知るもの。 そこに近づくほど、考え方の違いという自我の産物は薄まる。 個性とは、それをできずにいる自他に向けて、慈悲や慈愛や思いやりを放つ存在として生きること。 突き動かされて左右されるような表面の個別の考え方を本当の自分と主張することではない。


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短所や欠点の分析は、その者をあらわすことがない。

短所や欠点の分析は、その者をあらわすことがない。 なぜなら、それを克服するために成長した姿が、その者だから。 そのようにして、いかなる占いも学問も、その者をあらわすことがない。 自分を理解して成長したければ、克服し、より良くなるという機会を感謝して、生きること。 短所や欠点の分析は、そこに光を当てて、変えるためにある。 運命も現実も、作り出すものであって、漫然と受け入れて流されるものではない。 変化できる、それが命のすべて。 そこを変えている者にとって、短所や欠点の分析は、過去の姿となって行く。 だがこれが本性でもあるのだから、気をつけることになる。 真に受けず、過去として、しかし忘れず。 それを何がもたらしたか、なんであれそれを感謝する。 なぜならそれが言わば、生まれた理由でもあると言えるのだから。 現実から逃げるために、受け入れるのではない。 現実を生み出すために、受け入れる。 それはとのような現実も受け入れて、そのうけで変えて行くこと。 それが通じない現場では、苛立ちが生まれる。 だがその苛立ちの波は、間違った出方となっている。 正しくは、慈悲と慈愛であること。 なぜなら理由あって相手はそれが出来ずにいる。 だがどんな理由も乗り越えられるという、乗り越えた者としての姿を見ると、人には感じるものがある。 占いも学問も無力となる。 考える者とは、そのようなことを知る存在となる者という意味がある。