すべてを自分の命の糧とするなら、感謝はすれども恨みはしない。 良いところも忘れはしない。 悪いところは正すか許すかすることになる。 それでもダメなものは仕方がない。 万事を尽くしたあとの結果で、はじめてわかる。 尽くさず逃げ惑う者に正義は無い。
月別: 2019年2月
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いま手にある知識とは、自分の欠点や短所を補うものではない。
いま手にある知識とは、自分の欠点や短所を補うものではない。 新たな知識を学ぶか生み出す謙虚さがそのためにある。
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伝統が続くのには、力による慣例化、真実による感化、執着による習慣化がある。
伝統が続くのには、力による慣例化、真実による感化、執着による習慣化がある。 それらの土台であり、それらよりも長い継続がある、それは命の繋がりにある。 自主的な継続がなければ、そこに命の繋がりは隠れる。 体制維持の恩恵に預かる継続は、真実による感化とは言えない。 普遍の真理に絶対の形はない。 それを見失うのが自我の分別。 それを見失わずにいることが継続。 それは各自の態度のこと。 ほとんどの人が真実の感化を求めず自我に生きる態度の現代において、まず真実の感化が伝統を続けさせることは難しい。 不要な慣例化や習慣化が多くを埋め尽くし、真実は雲隠れする。 ここまで続いたからと、これからも続くと、あぐらをかいてはいけない。 その時点で自我のねぐらとしての役割を求めている。 その継続を求めて、さらに真実は雲隠れする。 そこから離れてもなお継続するものに真実があるとも言える。 ゆえに破壊も必要なこともある。 果たして自分の継続はどんな性質なのか、見極めると良い。
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それが自分の信条とはならず、多くの参考のうちの一つとなったなら、それを活用していることになる。
それが自分の信条とはならず、多くの参考のうちの一つとなったなら、それを活用していることになる。 信条にしているうちは、それを盾にして隠れているに過ぎない。 なぜならばその本質を見抜く観点を自分から盲目にしているからである。 これを盲信と呼ぶ。 宗教と信仰の違いはそこにある。
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宗教家には現実が欠けている。
宗教家には現実が欠けている。 倫理を学ぶなら現実的な倫理つまり行動がそこになく、ひとりよがりの、机上の空論でしかない。
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不備を確認されたことに対して観念や理論を話し始めた時点で、それは怠慢の言い訳である。
不備を確認されたことに対して観念や理論を話し始めた時点で、それは怠慢の言い訳である。 その場合の応え方は行動あるのみだから。
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どんな信仰や主義にも、成り立ちがある。
どんな信仰や主義にも、成り立ちがある。 それを知って、善く使えば良い。 どんな形であれ、それらはいつでも社会に生まれて息づく。 一方でどんな信仰も主義も、自我のために魔が差す隙がある。 忘れてはならない。
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未来を築く貢献に自分を自我なく使って欲しいと願えば、どんな勉強も自然と集まり進む。
未来を築く貢献に自分を自我なく使って欲しいと願えば、どんな勉強も自然と集まり進む。
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人は歯車の一つの歯のようなもの、他の歯があってこそ全体が大きく作用する。
人は歯車の一つの歯のようなもの、他の歯があってこそ全体が大きく作用する。 一人一人の小さな善行は、お互いにとって欠かせない。 作用たらしめる法則も欠かせない。
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組織に頼る心と言葉の継続は悪しき習慣を生み、自分個人を頼る無心と無言の継続は徳を生む。
組織に頼る心と言葉の継続は悪しき習慣を生み、自分個人を頼る無心と無言の継続は徳を生む。
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世界の美しさに育まれるというよりかは、
世界の美しさに育まれるというよりかは、 その美しさを認めて湛える讃えることが最上とすれば、その美しさの一部である自身を生きる。 すべてはひとつであり、お互いの鏡である。
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どんなことも偏っていればいずれ逆転してゆくことが、循環や反作用によって起こる。
どんなことも偏っていればいずれ逆転してゆくことが、循環や反作用によって起こる。
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矛盾を排してゆくのは、狭い論理へと逃げ込む場合もある。
矛盾を排してゆくのは、狭い論理へと逃げ込む場合もある。 排しようとしている矛盾がほんとうに矛盾なのかを考察することに人の良心が試される。
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否定による平安は逃避であり、受容による平安は、愛と真理、使命そして真の平安である。
否定による平安は逃避であり、受容による平安は、愛と真理、使命そして真の平安である。
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この世界のどこにも私の本当の居場所はないが、私は存在している。
この世界のどこにも私の本当の居場所はないが、私は存在している。 ならばこの世界のすべてが私の居場所。 すべてが私。